JKの家

将来の黒歴史

神奈川県在住当時9歳の俺の3.11

  2011年3月11日、俺はギリギリ小学3年生だった。学校はまだ春休みには入っていなかったものの、当時はインフルエンザが流行っており我らが3年2組は学級閉鎖。家でベイブレードをして遊んでいたのを覚えている。

  リビングで母親にそれもうちょっと静かにやれない?と言われながら遊んでいたときに揺れは来た。当時9歳だったので類似した経験はなく、何にも例えることのできない「大地震の揺れ」を経験した。母親が急いで玄関を開け俺の手を握り周りにものがないスペースに移動した。吊り下げるタイプのライトが見たことない軌道で動いていたのをよく覚えている。

  テレビをつけると見たことのない焦り方をしたアナウンサーが震源を東北沖と連呼しており、画面のなかの小さい四角には日本列島を囲うような津波警報の黄色い線が点滅していた。

  母を見上げても液晶に映る大人を見ても初めて見る強ばった表情をしており、何か異常な時代が始まっているということだけを理解した。

  幸い津波の心配は無さそうだということが時間の経過とともに分かり、次に学校にいる姉と岩手に住む祖父母の安否確認をしようとしたが、日本中で電話が行われており祖父母の方には連絡がつけられなかったが、姉の方は学校から連絡網を通じて学校まで迎えに来てもらうという方針であることが伝えられた。

  ここで問題になったのが俺の処遇だ。姉を迎えに行くとなると道中がどうなっているのか分からないため俺を家において行くことになるが、家に1人というのもできかねる。

  結局姉は同じ小学校に通う娘を持つ隣の家の人に連れて帰ってもらうということで落ち着いたのだが、この緊急事態で迎えに来て貰えなかったことを姉が未だに根に持っている。女ってそういうとこある。

  父はド深夜になったもののなんとかタクシーを捕まえ帰宅、祖父母も夜には連絡がつきなんとか無事だということが分かり、我が家の東日本大震災は夜更けに一段落を迎えることとなった。

  我が家にとっての東日本大震災はあの一日だけだったように思う。かなり恵まれた方だ。それでも13年経った2024年にこのくらいの情報量の文章が書ける程度には重い出来事だった。況や実際大きな被害を受けた人をや、というものである。

  なにかを背負うことはできないが、幸運を噛み締めることはしようと思う。