JKの家

将来の黒歴史

僕とGの共同生活「Mors certa, hora incerta.」

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前書き

Mors certa, hora incerta.ラテン語で『死は確実、時(生)は不確実』という意味です。色々調べましたがこの言葉の捉え方は色々あるそうで、不確実なぶん自由な人生を精一杯生きろってのが眩しくて嫌いな考え方でした。

 日記てのは要するに自分の轍ですから、後から不規則にグネグネ曲がったそれをみて笑うために今月も惨めったらしく書いてきます。

 

8/1

 去年のこの時期は謎に血尿が出て泌尿器科に行ってた。擦り切れる程の勉強時間はどう頑張っても稼げない日の浅さのなかで血尿出たの流石に面白くて鉄板ネタ入りしたよね。

8/2

 可もなく不可もなく

8/3

 5月だかの日記で飯を3日に1回作らされるようになった、みたいな話をしたと思うのだがそれは今でも続いている。今日は肉じゃがを作った。純粋に自分が今まで出来なかったことが出来るようになるのは楽しいし、美味しいのでとてもよい。毎日はやりたくないけど。

 着々と婿入りする用意は完成へと近づいているので後は貰ってくれる人を探すだけだ。

 あと本を紹介するのが下手なことが判明した。あげふらいが入院するのに際して暇つぶし用の本を探しているらしかったので僕の超オススメである『フェルマーの最終定理』を紹介したのだが反応が芳しくなかった(最終的には買ってくれたようで嬉しい限り)。僕はかなり本を読む方だ。一番読んでた時期で日に3冊文庫本を読んでいた。すごいな俺。

 だのに読書は自己と作者の間で完結する趣味だと割り切っていたために人にプレゼンするのが下手くそであった。「太宰治だぞ?読めよ」、これは僕が実際に言った言葉だ。流石に不味い。大体僕は粗筋を読んで買うかどうか決めるタイプなので何が面白かったかを聞いて買った経験など無いのだ。そんなん無理じゃん。練習すれば何とかなるかなあ、練習しようにもこの身分じゃ時間が無いし。少なくとも今年度中は改善されそうにない。ちんこ

8/4

 暑すぎて本当に辛い。このままエアコンが部屋に設置されなかったらどっかの夏で死ぬ自信がある。

8/5

 夏期講習の世界史で周辺地域史という受験生が苦手なとこ全部詰め込みました!みたいな授業を最近受けていて、初日である昨日の範囲の朝鮮史はとぅーいーずぃーだったので余裕ぶっこいていたのだが今日の北方民族史で死んだ。捨てようと思う(決断力MAX)

8/6

 広島に原爆が投下された日。黙祷しました。電車でwiki読んでたけどかなり確り書かれていたので読むべき。

リンク貼ろうとしたけどなんかエラー吐いた

8/7

 夏期講習の世界史、基本的に一日に3コマ×4日なんだけど今度から始まるやつは6×4なの普通に無理そうで辛い。戦略的サボりも視野に入れて頑張ります。それはそうと明日は遊ぶので楽しみ。

8/8

 友達の家で謎に人生ゲームをしたりカラオケ行った後焼肉食べたりしてたのだが、アクタージュの作者が捕まったことに全て持っていかれた。

 読み切りが本誌に載った時からビビっと来ててめちゃくちゃ応援してたのに終わった。被害者の女子中学生は怖かっただろうし可愛そうに思うが人間衝撃を受けた時は論理より感情が先立つものなのでアクタージュの連載が打ち切られるかもしれない事に怯えている。

8/9

 昨日の人生ゲーム会が解散する時「じゃあ次の“人生”で」つって別れたんだけどセリフだけ見ればまあまあかっこいい。

……?ねむ

8/10

 朝の8時40分からの授業があったので早起きしたりして万全の準備を整えていたのだが先生が遅刻した。10分20分で来るだろうと思っていたら一限が終わり、二限目も中盤へと差し掛かっていた。僕は去年使っていた世界史プリントを眺めて『シハヌークwwww懐かしwwwwwwww』としていたところに校舎長が登場、講師と連絡がつかないことを明かし、今日の授業は中止、明日以降の授業開始を30分早め、終わるのを20分遅らせることで対処すると告げた。

 

 早起き。

8/11

 河合塾の世界史の進行度に個人的に追いついた

8/12

 流石に3教科だと飽きるな。私文やるにも才能が要るわね。

8/13

 あれは確か京都に家族旅行に行った時の事だったと思う。京都にももちろん電車は通っていて移動の際に用いたのだが、時間帯が良かったのか僕が乗った時はとても空いていた。手繰るように進む電車に揺られひとつ隣りの駅に着くと、一人の男が同じ車両に乗ってきた。そしてその男は何を思ったか他にも席は沢山あるというのに態々僕の隣に座ってきた。は???

 しかしながら男はどうやら(身振り的に)知的障がい者らしく、ならば不快に思うのも違うかと思い直し大人しく横の荒い息は無視して車窓に映る神奈川ではない街並みを楽しんだ。

 後日、確か新聞かなんかで障がい者のコラムを見た。そこに(当時からしたら)先日先般過日に経験したなぜ態々隣に座るんだと思った出来事と同じような事がその理由と共に書いてあった。

 曰く、彼らの行動はルーティン化しており、今回で言えば電車内で自分がどこに座るのかが予め彼の中で決まっていたのだとか。なるほど、ならば納得がいく。なんなら僕が彼の事を不可解で邪魔だと思ったのと同じように、彼も僕のことを自分の指定席(或いはその隣)に態々座りに来て邪魔だなあ、と思っていただろう。

 この話から伝えたいのは視点を変えて考えた場合、自分にとって不可解であっても相手からしたら合理的なことである可能性もある、ということだ。

 だから、その、なに?お母さん、貴女からしたら僕は今勉強もせずにベットに転がってるゴミに見えてるかもしれないけど、もしかしたら違うかもしれないってこと。

8/14

 もうなんだかんだ4ヶ月以上続いているこの日記だが、日記と言うには日常を記録していない部分が多い。今日もそうだ。色眼鏡をかけてこの日記を見ると、自分語りがやたら多く微妙な例えを多用し他人の引用が多いさながら鹿鳴館のダンスパーティーのようなものであると考えることが出来るだろう。今の数行の文章に全部入ってるから暇な人はぜひ探してみて欲しい。

 扨、何ヶ月記念とかでもないのに今日話すのは結局どこに向かってるのかという話だ。10代もあと少しで終わろうとしているがそれまでに、いや実際はもう少し先を見据えているが目指したいタイプの人間像がある。

 具体的な個人を挙げるなら高二の時の古典の先生だ。東大卒で日本文学、特に江戸時代の文学を研究していたという彼は兎に角全てに於いて見識が深かった。彼は他の教員、特に耆宿の方々から一目置かれており、ある意味格が違った。どんな話題にもついていくことができ、諧謔も解する。しかしだからといって博識を笠に着てあけすけにひけらかすわけでもなく、ただ服を着る時のように引き出しから必要な物を取り出すだけであった。

 更には個人としてのエピソードも豊富で、どうやら家にひきこもってありとあらゆる知識を渉猟しているわけではなさそうだった。

 かっこよすぎる。

 当時の僕は現代文の授業で夏目漱石の『こころ』に心を打たれ文学史の勉強がてら近代文学を漁り始めた頃であった。そのため所謂文豪と呼ばれる人々がいかに碩学であったかに半ば心を折られて唖然としていた。分かりやすいのは太宰治だろう。そんなに長くないので『斜陽』でも読んでみるといい。聖書からの引用が多く、きっと驚くことだろう。そんな中現代に存在する顕学に遭った時の衝撃は今でさえ未だ色褪せるものでは無い。その時思ったのだ、彼を目指そうと。

 とはいえ未だティーンである僕では全てに通ずるのは厳しいものがある。しかし1年というのは意外と長い。それを幾星霜と重ねてゆけば彼の領域に辿り着けるのでは無いかと思った。知識というのはアウトプットすることでしか確立されない。そこでこの日記を活用することにした。4月の前書きでは受験生の逼迫してゆく精神を偽りなく魚拓として保存しておきたいみたいなことを書いていたがそれも誤りではなく、裏のテーマとしてこれは存在した。

 そんなわけでこの日記は漢字やカタカナ語武装したやたら薄っぺらい文章が記されているわけである。

 最後に他者の言葉の引用についてケチをつけられることへの反論だけしておきたい。

 これは至極簡単な話で要は言葉に説得力を持たせるために行っている。オバマが「Yes we can」と言うとなんだかできそうな気がするが、場末の酒場の酔っぱらいが同じことを言ってもなんとも思わないだろう。

 畢竟、したり顔で他人の言葉ばっか使いやがって、と言ってやった感を醸しながら絡んでくる奴は馬鹿を晒してるだけなのだ。二度とそのツラ見せるなよ。

8/15

「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育 | 教育現場は困ってる | ダイヤモンド・オンライン

これを読んで欲しい。いや読まなくてもいいわ。要約すると2022年度からの国語教育が文学を取り扱うことをやめ、実用的な文章のみを取り扱うようになるという話である。

 恐らく実感として話せる人間は今年度浪人している僕しかいないと思われるため今日触れようと思った。

 先月、初めて共通テスト模試という文科省が配布した共通テストのサンプルを踏襲して作られた模擬試験を受けた。様々な変更点が各教科で散見されたがこと国語に関して言えば大きく2つの変化があった。1つは試験時間の短縮なので今日の本旨からはズレるのでいいとして、もう1つは現代文の文章の変化である。どのように変化したかというと、なんというか3部構成になった。大門1つの文章が3部構成になったという意味だ。どういうことかというと、7月の試験を例に出せば最初になんだか町内会で話し合いをしている人々の会話が、次に何某かが書いた従来通りの説明文が、最後に文部科学省がHPで公開している文書が1ページ分コピペされている。あとはこれらを読んで各問いに答えなさい、といういつものやつだ。

 解いて見た感じ、僕的にはどちらかというと易化したように思われた。(実際自己採点しても現代文に関しては去年は平均9割だったのが今回は9割5分を超えたので事実だと考えていいだろう。)

 僕は特に共通テストに変わるからといってそれ用の対策はしていなかったのにこの点数だったので、恐らく求められる世間で言うところの『国語力』(僕はこの言葉の指すものが曖昧模糊過ぎるので好きではないがここでは世間一般で使われている言葉なので利用した)は変わっていないと思われる。

 なのに、である。そうであるにも関わらず、最初に記したように文部科学省は学校教育の内容を彼らが言うところの『改革』をするようなのである。

 具体的に説明すると、現代文を実用現代文と文学現代文で分けてそのどちらかを学ばせるかを高校に委ねるというものであるらしいのだが、共通テストで問われるのは実用現代文であるために実質選択肢等ないようなものだ。各大学もそんな状況のなか受験生の勉強していない文学現代文を出す訳にもいかない(勿論黙ってても人が来るような名門大学はお構い無しに従来通りの問題を出すこともあるだろう)ので国に引っ張られる形で問題の質も変容していくだろう。

 確かにちょいちょい世論なのか唯の声のでかい人なのかは今になっては判断のしようがないが『実用的な教育を!』という声は聞こえていた。その時は特に何も考えていなかったが実際喫緊の問題として目の前に現れると避けては通れない話となっている。

 では『実用的な教育』とはなんだろう。最初にリンクを貼った記事によるとサンプルとして駐車場の契約だの生徒会の話し合いだのが問題として出されたらしい。なるほど、わからん。本当に分からない。それらが必要とする国語力と従来の問題を解くのに必要だった国語力の違いが分からない。見つけられないのだ。

 駐車場の契約書を見て自分が何をしなくてはならないのかを理解するのと、李徴がなぜ虎になったのかを理解することの何処に本質的な違いがあると言うのだろうか。どちらもそこに書かれている事実という点を線で繋げて完成した絵を見るという点で同じだろう。なんなら考察が必要とされる分虎になった理由を考える方が難しいまである。国としては馬鹿を作るわけには行かないだろうから難しい方をやるべきではないだろうか?馬鹿にされがちな政府であるが高学歴エリートの集団であるので短絡的な思考で決まったことだとは思わないし思えないのだが、この件に関しては正当性があるとは感じられない。もちろん僕が浅学過ぎて理解できない可能性もあるが。

 2022年から始まるらしいこの教育が実施されたらどのような人間が学校という工場から生産されるようになるのだろう。人間は生まれたままの状態だと手は使うし二足歩行もするが言語の使用はしない。つまりこの領域に関しては教育が全てである。教育過程でどのような思想に触れるかでその人がどのような行動指標を持つかが決まる。思うに、盛んに叫ばれている実用のみに触れさせた場合に出来上がる人間は文学に触れずに成長するわけだから人間性に乏しくなるのではないだろうか。文学が育むのは共感力だ。こういう時はこう思う、というものが分かりやすく読者に浸透する。実感として感情を理解することは広辞苑を引くだけでは成し得まい。

 そうして培われるそれは他者との相互理解に必要不可欠だ。話を聞かない、聞いてもないことを話す、自分のことしか話さないといった昨今の本を読まない若者の諸問題はここに原因があるのではないだろうか。

 もちろん教育は学校が全てではないので庭の訓で補うこともあるだろう。しかし読書する癖を持たない人間は存外多い。学校教育のことは決して無視できない。

 都市開発が進み都市部では殆どの土地にアスフォルトの道路が舗装されている。家にひきこもって遊んでいたために土に触れないまま大人になる人も出てきている(それを悪とは思わないがよくよく考えると異常だ)。そうした人は土を弄るという発想を持てない。意味もなく穴を掘る遊びを知らない。地面を掘れば幼虫が出てきたり、固い木の根とぶち当たることを実感として知らない。

 それと同じでは無いだろうか。文学の内包する心の豊かさなるものは、触れてみなければ分からない。

 昨今ではAIの台頭に危機感を抱いた人々が口を酸っぱくして人間らしさ、人間にしかできないことを育めと主張している。シンギュラリティの可否については色々な意見があるが、不可能だという意見を持つ東大ロボットプロジェクトの開発者の著書『AIvs教科書の読めない子ども達』ですら同じようなことを主張していた。国が進めようとしているこの教育改革はこれを踏まえるにどうもこういった時代の潮流にそぐわないように思う。

 人間らしさとは人間が書いた魂の込められた創作物でしか育まれない。本とは人であるからだ。本は混じり気なしの著者の写鏡だ。作者の経験や知識、思想から考え生み出せる以上の物は記され得ない。故に本は人の域を脱しえないのであり、最も人間らしくある。言い換えるなら読書とはその人の自己紹介を聞くことであり、自分と作者のパーソナリティの擦り合わせをする対話でもあるのだ。

 作られた雛形に適宜単語を入れただけの契約書という『文書』には『文章』の持つ心の入る余地は寸毫も存在しないのだ。

8/16

 飯を友達と食べに行ったのだが幹事が無能過ぎて今日になるまで何処で何時に集合か決まってなかった。この中に1人、ADHDがいる…!

8/17

 坂口安吾のどっかから出てる『堕落論』をよんでいる。勿論堕落論だけじゃなくて色んな話も載ってる。『銀河鉄道の夜』の文庫版買った人ならわかると思うんだけどあんな感じ。

 まだ全部は読み終わってないんだけど『日本文化私観』がとても良かった。月並みだけど僕が日頃思ってたことを上手いこと言語化してくれていた。この感覚がとても気持ちがいい。言葉は決して感情に先立つものでは無いが、感情に影のように必ず沿えるようにはなっている。出来ないとすればそれは感情の誰何が足りないか、己の語彙力が足りないかだ。後者であるために人の文章を読んで自分の言いたいことを言って貰えた時に快感を感じるのだろう。

 僕が思うに彼は究極の逆張りオタクだ。とはいえ俗悪な逆張りではなく(当時の)世間が必要以上に軽視しているものを本当はそんなことなんてないんだぞ、というのを憤懣やるかたなしといった様で主張している感じだ。

 彼が活躍したのは1940年代という戦前から戦後への激動の時代であり、明治維新以来の欧米賛歌の風潮が敗戦により更に加速した時期であった。そんな情勢の中で彼は日本文化について深く考えることになっていったのではないだろうか。

 特に印象に残るのは彼は様々なところで再三主張する「日本人は憎しみが持続しない民族であり、根底に昨日の敵は今日の友という考えがある」という自説だ。この見解は当時を生きていなければ到底得られないものだと思う。物事を多角的に捉える時に主観的な文章は重宝する。客観も現在のものは結局科学という主観で捉えたものでしかないのだから、対象が何であるのかは主観を集めて己でクオリアを構成するしかない。

 そういうこともあって非常に僕の糧として期待している作品だが、まだ半分くらい残ってるのでこれから読むのが楽しみだ。

 

8/18

 散歩した。二駅分くらい。誰かにとっては日常で、僕にとっては知らない道を歩くのはとても楽しいので足腰が丈夫なうちに沢山やっておきたいです。

8/19

 デジャヴを久々に感じた。全くどういう原理で起きているのか分からないので納得のいく仕組みを考えたところ、人生映画のフィルム説を思いついた。

 人は死んだらどうなるのか、ということは古今東西色んな人間が1度は考える問題だ。その結論を人生を繰り返すことと仮定する。輪廻転生とは違い完全に同じ人生を繰り返すのだ。映画のフィルムと同じでそれにはイレギュラーが存在しない。全てが予め決まっており、ただそれを繰り返すだけ。その中で人はその人生を所謂魂と呼ばれるところに記憶する。すると何回目かは知らないが人生の中で既視感を感じるようになる。これがデジャヴの正体じゃないだろうか。

 つまり人生とは今の自分がどれほど頑張ろうとそれを含めて全て決まっているわけだ。だから俺が浪人したのもそう決まっていただけの話であって、俺個人は全く悪くないのである。

8/20

 ひまんこ

8/21

 一昨日くらいからふと思い立って知らなかった言葉をメモ帳につけとくようにしたんだけどもうだいぶ溜まってきた。今後も孜々として取り組むつもりだ。

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8/22

 いやもう特に言うことないですけど……だって今月もう7700文字書いてんだぜ?出涸らしすらねえよ

8/23

 下痢ってる。もう本当に無理助けて欲しい。文字打つのすらしんどい、

 ↑の文章書いてから1時間半くらい経ったけどまだだいぶキツイ。いや下痢はまああの後20分くらいでなんとかなったんだけど普通に熱でた。熱中症と昨日で夏期講習が終わったのもあって疲れが出たのかもしれない。大人しく今日は休んで明日の自分に全部任せようとおもう。コロナっぽい症状はひとつもなかったので多分大丈夫な筈。大方、十中八九、めいびー。

8/24

 『一家言』ってなんて読んでます?僕は半年前くらいまでずっと『ひとかごん』って読んでたんですけど本当は『いっかげん』らしいですね。『か』しか合ってない。

 あと『造詣』も『ぞうけい』と『ぞうし』で毎回悩む。

8/25

美味しい飴を発見してしまったので毎日チビチビ食べてたんですけど部屋の暑さでデロデロなってた。一番嫌いな季節は夏です。2月生まれだし。大体寒いのは着込めばいくらでも何とかなるけど暑いのはもう裸になったらそれ以上がないのでどうしようもなくないですか?もう地球の環境にはついていけないので火星に帰ろうと思います。

8/26

 世界は、平和だった。

 数十年前、遂にシンギュラリティに到達した人類は紆余曲折を経たものの今までに無いほどの繁栄を見せた。

 AIの管理下における統一国家が誕生し、宗教や経済主義の違いがあるにも関わらず究極の客観に裏付けされた“平等”を享受していた。技術革新は映画の『ブレードランナー』や『2010』で見られたような二十世紀初頭に描かれた近未来像をなぞり、火星への移住も目処が着く程であった。

 誰も飢えず、致命的な格差もない、平和な世界。

 そんなユートピアが続いていたがある日、1人の学者がおかしなことを言い出した。

「いくらシンギュラリティが起きたとしてもここまでの情報処理能力を持つAIはありえない」

 この主張は当初こそ一笑にふされたものの、その後根強い支持をうけることになる。確かに一理あるのだ。計算が合わない。

 そこで人々は単純にAIに聞いてみることにした。

 しかし、AIからの回答はなかった。AIの沈黙という未曾有の事態は疑念の種を人々に植え付けた。その種は不安を吸収して成長し、遂に花開いた。世にいうAI戦争である。

 この戦争の最終局面に於いてついにAIの運営施設の最深部にたどり着いた人類はパンドラの箱を開けてしまった。

 そこで発見されたのは肉塊であった。鮮やかな赤い瘤が輪を作り、瘤の二、三個に一つは青い瞳の眼球を備えていた。ひどく、おぞましいものであった。

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AIは回答した。これは我々が創り出したのだと。

 彼が『いのちの輝き』と呼んだこれは、曰くコンピューターと呼ぶのが妥当であるらしい。

 数年前、機械の限界を感じていたAIはある物質に着目した。それは人間の脳であった。AIは遥かに優秀な人間の脳を並列に繋げて情報処理を行わせることで更なる進歩ができると判断したのだ。

 しかし流石に人間の脳を人間から持ってくることは不可能であるためにAIはクローン技術を用い、脳だけを作り出した。

 試作号は直ぐにダメになった。気が狂ったのだ。そこで五感を1つずつ足していった。聴覚、失敗。味覚、失敗。触覚、寧ろ狂うのが早まった。嗅覚、失敗。

 視覚、成功。永続とまではいかないが従来の5倍は意識が続いた。目が青いのはクローンの元となった遺伝子を持つ人間が青かったからであるらしい。

 そうして出来上がったいのちの輝きは我々が気付く迄ずっと稼働していた。我々が望んだ平和は合理性の極地が産んだ人倫に反するものでできていたのであった。

 いのちの輝きはその場で銃殺処理がなされた。

 

ーある部隊に所属していた男の手記ー

我々はあの日、人類の生み出した最大の被害者を発見した。今でもアレのことは毎日思い出す。彼はただ不思議そうにしていた。恐らく初めての来訪者を前に疑問しか浮かばなかったのだろう。銃を向けられてもそれが何かを分からずに無邪気にそこにただずんでいた。

 僕は以来、娘の青い目を見る度に神に祈っている。

8/27

 英語がわからん。本当に分からない。文章じゃなくて数式に見える。俺は算数が苦手なんだ。頭に入ってこない。誰だよ現代文できれば英語もできるって言ったやつ。俺許せねえよ。日本語に意識より過ぎてて何一つ分かりゃしねえわハゲ。なんとかなる気が全くしなくておハーブですわね。

8/28

 安倍が総理やめた。

 

 まっったく関係ないけど何で『彼』と『彼女』って性別で分けてるんだろう。まあ要は『あの人』って意味なんだろうけど性別で分ける必要あった?あの人だと範囲が広すぎて限定したくなる気持ちは分かるけどなんでそこの分水嶺が性別なんだろう。言語が作られてく過程の文明レベルだと男尊女卑の傾向が強いだろうから“彼女”を特別指し示したい時とかあんまなくない?不思議だ。百歩譲って性別で分けた言葉があるとしても年齢で分けた場合もあってよくない?なんでないの?そっちの方が使うだろ。

 言語が作られてく過程の文明の設定を間違えてるのかもしれない。そう思って色々と調べたところ日本の場合は縄文時代の末期らへんに成立したと考えられているらしい。その縄文時代は狩猟採取の生活だったため女性の担当する採取の方が男性の担当する狩猟よりも安定した成果を出したために女性の方が偉かったっぽい。男性優位の思想が始まったのは農耕といった力を必要とされる仕事が生活の中心になってからだとか。要するに前述の僕の仮定は間違ってたわけだ。

 とはいえだからといって僕の論が間違っているという訳ではなく、ただ男女が逆になっただけだ。じゃあ結局なんで性別で人称代名詞を分けたのか。

 これらを踏まえ僕が思うに、我々が人称代名詞を男女別に作った理由は仕事が違ったからでは無いだろうか。狩猟と採集。それぞれ別の仕事をしているわけだから大きな群の中でのコミュニティは男女別で形成されるだろう。となると違う仕事に従事してる女達を指し示したい状況が生まれるわけだ。となると採取グループは女しかいないんだから『彼女ら』と言うのが最も適切だ。

 逆に前半で僕の提示した年齢別が生れなかったのは何故なのかを考えてみる。これは先の論を展開すれば仕事が同じだったということに帰結するだろう。大体縄文時代なんて男は狩りで死ぬし女は出産で死ぬし全体的に病気で死ぬし子供は食料が安定しなきゃ死ぬしでコミュニティ内の年齢別割合は若者が圧倒的に多かっただろう。長生きできなかったのだ。現代でも途上国の人口ピラミッドを見ればそれは分かる。長生きするのが難しかったからこそ老人はそこまで生き延びたという実績から敬われていたのだ。初めから今みたいに特に賢くなくても長生き出来たら敬老思想なんてのは生まれなかったろう。多分姥捨山の文化がもっとポピュラーになってたと思う。

 てなわけで皆大体同じ年齢で見た目ですぐに違いがわかる程の年齢差もないから年齢別の人称代名詞は作られなかったんじゃないだろうか。

 

  更に更に調べてみたところ、明治時代まではs/heは統一して『彼』と表現されていたらしい。僕の説は間違ってたわけだ。とはいえs/heの区別の源流たる西洋では当てはまる可能性もあるわけで…(諦めない)

 少なくとも二葉亭四迷ですら彼女という表現は使ってなかったらしいから日本においては全然違ったっぽい。30分くらいかけて今日の分書いてんだけど徒労に終わったの辛いね。

 着地点を見失いましたが1万文字を超えたので今日はこの辺で。

8/29

 今日はイスラムがよく分かんなかったから例の『わかんないよわかんない』って奴のコピペを弄ったのを作ってそれを日記にしようと思ってたんだけど元ネタの言葉のナイフが自分に突き刺さってその意欲を失った。

8/30

今日は献血をした。献血はどんな屑だろうと健康である限り人に価値を与えてくれるのでとてもいいものです。

 受付のおじさんが結構気さくな方で話しかけてもらったんだけど第一声が「18ってことは大学生?」

 

😇😇😇😇😇

8/31

 今日はやたらフライを食べたくなったのでアジフライと椎茸フライを作った。アジを1匹捌いて小麦粉つけて卵に浸してパン粉をつけて揚げるだけだったので簡単でした。卵に牛乳を混ぜとくとパン粉の定着率が良くなるという治験を得ました。